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起業の支援・
仕事の進化の対話編~5

― こうして話をしているうちに、漠然と考えていた自分の考えがまとまってきた、問われることに答えているうちに、自分の言いたかったことがわかってきた、これまで自覚していなかったことが、あたかもずーっと考えていたかのようにみえて、その言葉が自分に説得力を持ってきた――

このような経験があったとしたら、それこそ対話の力です。対話することによって、顕在化してくる力を起業や次の仕事、生き方に活かしていく、そんな役立つ対話をもっとすすめてみませんか。
わたしも実践してみました。(大塚 朋子)

―今回は、起業や仕事と相乗の関係にあるところの女性の自立や社会進出のために半世紀を超える活動を続けられ、いまなお地域のリーダー的存在である静間敏子さん(水戸市在住)にお話をうかがいました。


若い人たちへのバトンタッチをしていくことが大切ですね、と静間さん。

<いまも幅広い活動を>
大塚 現在も陶芸教室を主宰、生徒さんたち に教えていらっしゃるのですね。
静間 ええ、何十年も通ってくださる方々もいます。先日は学校の記念品として、花器200本をつくりました。手作りですから当然に同じものはないわけで、作る喜びと先方に気に行ってもらえる喜びは格別ですね。
焼き物はわたしのおもな仕事。社会的な活動と並行してこれも50年近いでしょうか。 焼き物用の土の重さが1袋20㌔、釉薬が30㌔、これをまとめて購入するので、自分の車に詰めるだけ積んできます。あわせて200㎏くらいでしょうか。
大塚 ご自分でいまも運転されているんですよね。
静間 ええ、これもやはりもう50年ほど。長いですよね。
大塚 教育、国際交流、福祉、街づくりなど幅広い分野で、しかも大変長きにわたって活動されてきて、女性の大先輩としてほんとうに素晴らしいことです。すでにその実績は1996年に茨城県功績賞、その後、茨城賞、2002年に国から男女共同参画社会づくり功労者表彰、2003年に勲五等瑞宝章などなど多くの受賞があります。
いまも、「街を花と緑でいっぱいにする会会長」「いのちの電話」後援会理事、水戸市国際交流協会理事などをされていて、現役で地域のさまざまな活動に貢献されています。静間さんのこれまで歩まれた道はそのまま、茨城県の戦後女性史と重なるだけでなく、国内外の女性たちのさまざまな動きともつながっていきますね。
静間 さいわい、わたしはいい先輩、お友達、に大変恵まれまして、そのおかげと思っています。

<関西から茨城へ>
大塚 いわゆる保守基盤が強固といわれているこの地で、女性たちがこれまでにずいぶん先進的な活動をされてきたことに、わたしとしてもちょっと嬉しい驚きがあるのですが。というのもわたしの両親とも茨城出身で、よく“保守的”だなんていう話を聞かされていましたが、わたしからみると二人がそもそもそうでした。
静間 わたしは夫の転勤で、20代で茨城へ。まったく異なる文化圏に来たなという感じでした。
大塚 なじめました? 1955年が昭和30年、そのころの茨城でしたね。
静間 いろいろ戸惑いがありました。例えば夫の勤める日立製作所は日立市に社員専用のゴルフ場をもっていました。ウィークディーの昼間はがら空きでしたからセルフでやらせてほしいと交渉して。はじめはそんな前例がないからだめ。それでゴルフが好きそうな女性を数人集めて幾度も交渉してオーケーになったんです。
大塚 夫さんがそれでよくわかってくれましたね。
静間 そういう手続きを取るなら、と反対はしませんでしたね。また、バスの便が悪かったので車の免許を取り、小さなルノーを買いました。
大塚 まあ、素敵。その頃から、すでに女性だからだめ、とか、そんなことやるべきではない、という発想がぜんぜんなかったんですね。
静間 学校で受けた教育もそうでしたし、大阪で生まれて、京都で育ったわたしは比較的自由に新しい文化や伝統的な芸術など双方に関心がもてる環境にいました。
大塚 ゴルフで始まった茨城での生活が、その後どのように進展していったのでしょうか。


静間さんは指先をしなやかにカーブさせながらろくろを回していく様子をテーブルの上でさらりと見せてくださった。

<自分の仕事、陶芸>
静間 わたし、いつも思うのですが、社会的な活動だけに熱心な奥様方も多いのですが、やはり自分自身のものをもたなくては…と。それらを両立するなかで、それぞれが深まっていくといいますか。
大塚 確かに、地方の名士の奥さんというだけで社会に出て行ったり、地元で幅を利かせるようなこともありますからね。
静間 30代前後、わたしは夫の母が半身不随となり、介護に明け暮れて家を空けることがほとんどできなくなりました。それで家にいても得意なものをきちんと身につけておくことが必要だと思いました。それで、京都にいた時、絵付けなどした経験があるので陶芸を始めました。
大塚 さきほどから手を拝見していて、ものづくりをなさる方のたくましくて、きれいな手だと思っておりました。陶芸といえば、この地には笠間、すぐ隣りの栃木県の益子など、代表的な窯がありますね。
静間 これも幸運でしたが、人間国宝の浜田庄司さんや加守田章二さんなどから教えていただく機会にも恵まれたんですよ。
陶芸をやるのに二つの道があるんですね、他のことにも通じるでしょうが。制作者として創作に打ち込む場合と、教える者として指導中心と。わたしは始めから教える道を取りました。自宅に窯を築き、陶芸教室を始めました。これなら、基本的には家にいる仕事なので、介護との両立も難しくはなかった。
大塚 かなり計画的でしたね。
静間 漫然と趣味的なことをやるのではなく、好きなことと、少しでも自立できること、そして主婦としての役割もはたすこと、当時のわたしの選択としてはいちばんいい方法だと思いました。子どもはいませんでしたし、夫は多忙で、海外出張が多く、転勤もありましたから、わたしにはかなりの時間を自由に使うことができました。
大塚 ご自分の与えられた条件の中でそれを目一杯使われたという感じがしますね。
静間 そういう意味では、茨城に来てすぐに、大学の聴講生になって2年間フランス語の勉強を続けました。こうして新しいことを学ぶということが。これものちに大変役立つことになります。好奇心が強いのかしら、いろいろやってみたくなるんです。
大塚 そんな静間さんがさらに一歩踏み出すきっかけは、徳川幹(もと)子さんとの出会いですね。


「財団法人茨城県婦人会館の歩み」と 徳川幹子さんを紹介したDVD

<徳川さんとの出会い>
静間 そもそもは、わたしが車の運転ができるというのがご縁だったと思います。当時、徳川さんは婦人会館建設の資金集めに奔走しておられて、あまり車もない時代、不便されておりました。
大塚 徳川さんについては今回、いろいろ資料を読ませていただいて、時代の中、数奇な運命をたどられたおひとりだったんですね。静間さんが中心になって制作されたビデオ「華族から開拓農民へ~茨城県婦人会館と女性の自立に尽した徳川幹子」。これに大変よくまとまって紹介されていますね。そこには、~旧大名侯爵家のお姫様として生まれ育ち、一橋徳川家に嫁いで伯爵夫人となりながら、第二次大戦後、自ら進んで開拓農民となり、生産者の道を歩んだ女性~と。著書には「私はロビンソン・クルーソー」、「絹の日・土の日」などがあります。
徳川さんは1946年(昭和21年)に水戸で、開拓生活を始められた。8年後には県そしてのちに全日本の開拓者同盟婦人部長になって開拓者の生活改善に努め、1964年(昭和39年)には県の教育委員に就任。このころからでしょうか、女性教育の振興にも大変、力を注がれました。
静間 県内だけでなく全国をまわられて、特に戦後の復興期に女性の力が大切で、それには女性に対する教育の必要性を痛感されたのだと思います。徳川さんは結婚後、1926年(大正15年)から2年半ほど、夫のドイツ留学に同行して、当時のヨーロッパ、ちょうど第一次大戦後の敗戦の姿を目の当たりにしてらっしゃる。そこで財産や華族の身分がどんなにむなしいものか、また女性の力が大切かを強くお感じになったと思います。
大塚 こういう方とのお付き合いというのは、なにか特別なお気づかいがありましたか?
静間 徳川さんとは30年近い歳の差がありましたから、親子ほどの開きです。わたしは学校を出てから今日までずっと、(社)大学女性協会という団体に所属していますので、その支部の代表ということで茨城県婦人団体連絡会へ参加していまして、その場で徳川さんにお会いしていたのが始まりでした。もう素晴らしいリーダー的な素養をお持ちで、政治力もありましたね。ずっと見上げるよう存在でした。 
あの方はよい人間関係を築くのが本当にお上手でした。50人を超える使用人がいたご身分でしたから、お小さい時からその人たちとどのように付き合うか、マネジメントされたのではないでしょうか。

<自分たちで婦人会館を>
大塚 70年代後半(昭和40年代)ですね、県内の女性団体の活動拠点や生涯学習の場の必要性を痛感して、徳川さんは女性のための施設作りに奔走されますね。
静間 県内8団体による婦人団体連絡会で女性の力を結集して施設を建設しようと提案。募金活動を展開しました。徳川さんの持論は女性たちの力、募金を結集して自分たちの会館を建てるそのプロセスが大事と常々言っておられました。寄付金も、一人100円募金を呼び掛け、女性たちが出せる金額で、身銭を切って出すことに意義があると。
市町村を回り、各社会教育課などにも協力いただき、地元の女性団体の代表へ呼びかけました。徳川さんはすでに県の社会教育委員をなさっていましたから、それはお顔がききましたね。目標額の6千万円を達成し、さらに県、市町村、企業団体からの補助金や寄付金をあわせ、1億1千万円をかけて婦人会館を水戸市内に建設しました。1969年にオープン、2年後に財団化、初代理事長に徳川さん、その時が68歳でしたね。わたしは40代になったころで、女性たちの手で会館ができたことを本当に喜びました。
大塚 わたしもかつて、いわゆる女性センターで働いていて、女性施設の変遷なども学ぶ機会がいろいろありましたが、茨城県は意外と早く婦人会館の活動が始まったことを記憶しています。
地域の婦人団体の活動が活発になるにつれ、自分たちの手で婦人会館を作ろうという機運が高まってくるのが昭和40年代から50年代にかけてですね。1975年の国連世界女性会議以降、一気に高まった運動はこれまで多かった民設民営の婦人会館から公設民営、公設公営でその名称も女性会館・センターとして登場してきます。世界的な女性の社会参加、男女の平等の動きが大きくなり、国内の女性政策も明確になってくる、といった変遷をたどりますね。
静間 茨城県の場合、徳川さんの力は大きかったと思いますね。リーダーシップもありましたし、政治力といいますか、豊かな人脈もあり、それに地の人ではなかったことが、かえって活動しやすかったかもしれません。
大塚 会館設立にあたって掲げた活動目的がありましたね。
静間 生涯学習の講座・研修、視野を広げるための海外研修、心身障がい者のための福祉バザーの3つです。県内唯一の女性のための施設として、また団体の拠点として大きな役目を果たしました。

<3代目の理事長>
大塚 その会館の3代目理事長が静間さん。
静間 徳川さんはそのリーダーシップを発揮されて草創期のお仕事をされ、2代目の吉岡綾子さんは学者タイプの方。わたしのミッションは財団運営の維持。コスト意識でのぞみました、もとは大阪人ですものね。
全国の婦人会館の集まりなどでたびたび東京などの会合に出ていましたが、どこも運営には悩んでいましたね。一部を有料駐車場にしたり、結婚式場はじめ貸しホールや貸室でなんとか収入を確保し、事業を継続していくというのが実情で、ジレンマもありました。
大塚 それでも茨城の場合、自主事業や補助事業、県からの委託事業なども行い、消費生活関連から教養講座、相談室、趣味的な教室などさまざまな事業を行って、女性たちの活動を支援してきましたよね。わたしの経験でも、事業と採算という課題にいつも直面していましたが、それだけに絞りだしてくる企画やアイデアがうまくいった場合の喜びや達成感がありました。ずいぶん鍛えられました。
静間 わたしは、全国組織の(社)大学女性協会のほかに(社)国際女性教育振興会という団体にも所属していました。その海外派遣研修でフランスに女性団体調査のため、1か月ほど滞在したのです。今ではあまり考えられないような期間、じっくりフランスの特に民間女性の活動を知る機会となり、その後のわたしの活動の原点にもなっています。何度かフランスには研修に行きましたが、パリにある再就職支援のプログラムを開発した「ルトラバイエ協会」を訪問した際、横浜がこの再就職支援プログラムを取り入れる話を聞き、とてもいいことだなと思った記憶があります。30数年前になりますかしら。
大塚 再就職の支援事業は先見の明がありましたね。わたしのフィリピンでの仕事も、日本の女性センターをモデルにして日本からの援助で建設した女性のための総合センターを活性化するプロジェクトだったのですが、日本の先例は海外、特に途上国でとても有効に働く可能性があり、このソフトは非常に大事だと思っています。
女性会館、女性センターがあればこそ女性たちは地域に拠点を持つことでネットワークを広げ、相互に学びあえる場となり、また暴力被害を受けた女性などの回復、社会復帰など実践的な支援ができる。   
静間 実践的なことはとても必要なことですね。机上のお勉強ばかり身につけても役に立たないことも多いですよ。
1998年でしたか、国際女性教育振興会で海外派遣研修のひとつの成果として、「チャレンジ 新しい私を創る」という冊子を発行しました。これは10年ほどかけてデンマーク、カナダ、イギリスなどの成人教育を研究した結果なのですが、やはり、大人が学ぶ意味や自分をどう変えていけるのかなどスキルをまじえて作りました。
女性のリーダーシップやプレゼンテーション、コミュニケーション、アサーションなどをどう身につけていくか、実践的なことをこれからも女性たちはもっと学んでいったほうがいいですね。

<会館の幕引きと次のステップ>
大塚 18年間理事長をなさって、その間、国際女性教育振興会の副会長を12年務められ、さらにNHK放送番組審議会委員などもされ、もっとも多忙で、またさまざまな活躍をなさっていらっしゃいましたね。
静間 いろいろな方との出会いで、ネットワークがどんどん広がっていきました。全国女性会館協議会にも加入して中村紀伊会長はじめ全国の“同業者”とも親しくさせていただき、会館運営の相談や情報交換に役立てていきました。
しかし、男女の平等や女性の自立など女性問題解決にあまり性急にいきり立っても相手の気を引きませんので、押したり、引いたりしなやかな戦略が大切ですね。
大塚 婦人会館の陶芸教室でも長いこと教えていましたね。若い時に決められたことがきちんと活かされていました。
また、数多くの画期的な事業をなさってきましたが、その中のひとつ、1982年(昭和57年)から今日に至るまで継続してきた「茨城県女性のつばさ」という海外研修事業も大変苦労をされて立ち上げた事業とお聞きしましたが。
静間 県との交渉に2年位かかりましたか。地域の女性リーダーを育成していくには、このような海外のさまざま事例を学んでくることも大切でしたからね。
大塚 会館の理事長を務められた’79年から’97年というのはちょうど全国各地さらに国内外で女性の運動が開花し、後半に収束するまでとにかく男女平等、共同参画の時代。静間さんご自身も50歳から18年間というちょうど熟年の時期を過ごされたことになりますね。
その会館が2005年に35年間の事業に終止符をうって閉館となりました。
静間 すでに県には女性教育会館レイクエコーが、そして市には多くの公民館がつくられました。そこで建物の老朽化と運営の苦しくなってきた婦人会館の事業を公設の施設に移し、会館を閉館しました。清算事務のため再び6代目の理事長となり、難しい法人解散の事務を円滑に終了させました。レイクエコーという宿泊施設のあるセンターは女性プラザと生涯学習センターが併設されていますし、県の男女共同参画支援室では男女共同参画社会推進のための事業企画も行われています。婦人会館のこころざしは、こうしていろいろな形で次にバトンタッチされていると思いますね。
大塚 このような女性施設が、いつまでも継続すればいいというものではなく、時代の要請や社会の課題の移り変わりとともに進化して、変わってもいくものなのでしょうね。個人やNGO、NPOなどが市民社会を変えていく力になってきていますものね。
静間 2001年に、「日本女性会議みと」を開催しました。2年かけて全市で準備をすすめ、一般公募による実行委員が240人にもなりました。当日は2日間にわたり基調講演はじめ12の分科会やワークショップ、展示などで盛りあがり、参加者は全国から3300人を超すほど。市民参加のこういう大きなイベントは水戸の女性行政を大きく進展させました。
大塚 静間さんは、その実行委員長をなさって、成功させたとうかがっていますが、確かに大同団結するいいチャンスではありますよね。外向きにもいろいろアピールできるし。「日本女性会議2001みと宣言」と、水戸市男女平等参画基本条例の施行となった画期的な会議でしたね。しかも男女共同とあいまいにしなくて男女平等という条例にしました。本当に地域の女性たちはこれを誇りと思っていいですよ。


静間さん作うずら手皿長さ40㌢×巾20㌢ 
(2000年刊 釉友会25周年記念誌から)

 <ほめ言葉を>
静間 わたし陶芸を教える時に、まずどんなものを焼きたいか、生徒さんにお聞きするんです。作りたいものがはっきりしていれば、あとはやり方について経験のあるわたしのほうでアドバイスをすればいいでしょう。目線は同じということは、実はイギリスのノッテンガム大学成人教育学部へ行った際に学んだことなんです。成人教育の場では、教師はチューターという役割で、社会経験のある生徒さんたちそれぞれのバックグランドに敬意を表しながら、講義を進めていくのです。そして、いつも素敵なほめ言葉を用意していて、とてもいいタイミングでそれを発してくれる。それが本人も周囲もとても勇気付けられ、モチベーションが上がります。
大塚 このプリント、「ほめ言葉49」ですね。わたしも最初に静間さんにお会いした時にいただいて、英語でも日本語でもいいなと思いました。たとえば、気に入りました-I like that! その調子-Nice going! やればできるではないですか-I know you could! 素敵だ-Excellentなどなど。よく、お礼や感謝、喜びなどの感情表現など口にすることが億劫な人、見かけますよね。こういうことはどんどん声にしたほうがいい。
静間 気持ちとしてもいいものですよね。ほめるということはその人を理解し、認めるということです。これは人と人とのよき関係を生み、よき社会への貢献をうながすと思います。
大塚 お話を聞いていて、茨城の先駆的な女性たちが“ノーブレス・オブリージェ”といいますか、それなりの立場の方々が、きちんと社会的なミッションを果たされてきていることに感銘を受けました。
静間さんのお話はいろいろな分野に広がっていって、わたしだけ聞いているのはもったいないという気がしてなりません。こうして文字になったのはその一部だけに過ぎないのですから。
わたしたちは前に進もうとするとき、もう一度記憶を掘り起こし、そこで見つけたものを携えて次に行くことが賢明だと、教わったことがあります。いまとてもそれを考えています。
貴重なお話を聞かせてくださって、本当にありがとうございます。(終り)

大塚 朋子
ICH05467@nifty.com